Baroqueの優雅な昼下り

2010年6月27日日曜日

サッカー

さあ、29日パラグアイ戦です。

         ♪

デンマーク戦は本当にうつくしかった。

おめでとう 岡田JAPAN!

応援しがいがあります。

午前3時半からですので、

テレビ観戦の作戦は ‘仮眠をとって’ でした。

↓の写真は 
デンマーク戦の後、
南アフリカ南部のベースキャンプ地ジョージに着いたメンバー。
いい写真ですね。

腰パン は、いないようです。
写真ニュースから拝借しました。

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2010年6月25日金曜日

ボスニア・ヘルツエゴヴィナ ⑭

サラエヴオ

サラエヴォは 数百メートル 歩いただけで  

イスタンブールからウイーン を旅行したような 気分になってしまう。

多種多様な文化の混在する魅惑的な町です。

濃厚なエキゾチシズムを漂わせる町です。

                 *

’93~’95にかけて 

‘スナイパー通り’ といわれた 通り と平行してはしってるトラムの通り ↓

当時、この通りは、 動く物は全て撃たれる といわれてたそうです。

今は のんびりと 電車が走ってます。


もう イスタンブール のようです。 ↓
(隊商宿・キャラバンサライなどもありました。)

トルコ珈琲 ↓ (ボヘミアンコーヒーというようです。そうか なるほど、歴史が学べます。)






博物館となってるシナゴーグ ↓ 古いセビリア正教会 ↓  (博物館もある。) ホテルのメニュー ↓

年代もの の メニュー 市内のミリヤツカ川にかかる ‘橋!’↓が・・・・・。




サラエヴォ空港 ↓  (ミュンヘン経由で帰国です。)

飛行機を待つ間(サラエヴォ空港) ‘サッカーのW-Cupの開会式’ を SONYのテレビでみてました。 ↓

今回の ‘わたしの架空都市’めぐり は おわります。

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ボスニア・ヘルツエゴヴィナ⑬

うつくしい ドリナの橋 ↓

(ヴィシュグラード)

イヴオ・アンドリッチ:


ノーベル文学賞受賞作家。


サラエヴォ事件に関係があったといわれてる ‘青年ボスニア’ に、関わりがあったとされてる作家。 ↓(バルカン史、柴宣弘編、山川出版社)


知らなかったので、


このたび、あわてて取り寄せました。↓


イヴォ・アンドリッチの小説2冊
*ドリナの橋 ↓↑
セルビアとボスニアの境を流れるドリナ川のほとり


ヴィシュグラード(アンドリッチの故郷)にある


美しい石の橋をめぐる400年の歴史をかいたものです。↑↓




*ボスニア物語 ↑


旧ボスニアは
7世紀ごろ:南スラヴ族の居住区


10世紀ごろ:ビザンチン帝国に治められる


1463年:オスマントルコのの属州となる(1878年まで)


1878年:オーストリア・ハンガリー二重帝国の占領下となる(1914年まで)


の歴史をたどるが、この ボスニア物語 は その年代記 。↑↓




うつくしい ドリナ川 ↓


まさに ‘緑色に湧き立つドリナ・緑のドリナ( ←アンドリッチによる)’ です。


このドリナ川はサヴァ川にそそぎ。


セルビアとボスニアとの境となってます。




とても きれい です。 ↓


この景色が 延々と続きます。


ドリナの橋 ↓


11個のアーチ に支えられ 中央に カピア という王冠をいただいてる堂々とした、うつくしい橋。


(カピアは わたしの写真では、めだたないです・・・。) ↓ ↓ これです。 カピア (年代記を入れたトルコ語の碑文が刻んであるそうですが、読めませんでした。1571年大宰相ヴェジール:メフメド・パシャによって築かれました。)


(小説・ドリナの橋 に登場する キャラバンサライ(ハン) は、わかりませんでした。 せめて 跡地 だけでも、知りたかった。)

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ボスニア・ヘルツエゴヴィナ ⑫

*サラエヴォ

今回の目的のひとつは、

第一次世界大戦勃発の地といわれてる 

サラエヴォのラテイン橋 を みたい という事でした。

資料の少ない旧ユーゴですが、このラテイン橋のことは

沢山の本にあります。

分かりやすい ↓ の本を コピーしてみました。


見るのつらいですね。 ↑ 


サラエボ市内にある ラテイン橋です。 ↓

わたしの心配なんて 必要ないです。 ↓





ここが、発射現場だそうです。↓


その現場は、博物館となってます。 ↓




‘ うたかたの恋’ で有名な衝撃的事件の後です。

オーストリア・ハンガリー帝国のその次の後継者に決まってた

皇太子フランツ・フエルデイナントが‘青年ボスニア’のプリンツイップ によって 殺害された サラエヴォ事件 の事です。
        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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2010年6月23日水曜日

ボスニア・ヘルツエゴヴィナ ⑪

国境です。

7,5Km(一説に9Kmといわれてる)の

ボスニア・ヘルツエゴヴィナの貴重な海岸線の領土です。 ↓  

国境を2度超えて再びクロアチアへ。 そしてボスニア・ヘルツエゴヴィナに入国です。

モスタル ↓ です。

1993年ボスニア内戦の砲撃の痕 ↓。

このような痕は市内には沢山あります。もっとすごいのも沢山あります。







トルコ大使館のようです。 ↓

有名な 石橋 の 東岸 は トルコ系の人々が大勢住んでます。 まるで トルコ を旅行してるようです。 ↓

↓の橋の写真は

破壊された 

鉄道橋 が 保存されてる ヤブラニツカ というところです。
ドイツ軍によるチトー暗殺計画が失敗した地点だそうです。
チトーが乗ってるという情報をつかんだそうですが、
これには だれも乗ってなかったのだそうです。
記念の博物館があります。
この展示されてる汽車ポッポは別なものだそうです。

別の説もあります。1943年5月:パルチザン戦争の最大の激戦、ネトロヴァ川トスーチエスカ川の戦いで、敵の追撃を断つため意図的に爆破された。という説もあります。

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あれこれ・・・・





梅雨の季節です。



その名にふさわしいと おもい



梅酒をジャムの空瓶に造りました。



(つまり 少しデス。)



           ♪



お相撲の事



お相撲が好きなので、



その責任感(・・・・?!)から少し・・・。



次から、次から~、もう頭かかえてます。



でも、名古屋場所はあるべきです。乗り切って下さい。



(正確なデーターを持ってませんが、日本史始まって以来、最も苦しかったこのたびの戦争中でさえ、‘場所’ が開かれなかった事は何回あるのでしょうか?



あのつらい時代でさえ 関係者は 本場所を開くためにどれだけ努力した事でしょうか。丈夫なお相撲さん達は何人国内にのこってたでしょうか。観客はいたのでしょうか。わかりませんが、その時代の事を想像しますと、今の事態はなんでもないです。本場所とりやめ なんてとんでもない事です。ここで屈しては頑張ってくれた諸先輩に申し訳がたちません。



おすもうには大甘のわたしです。






うつくしく・清いだけの白河に、 魚 は棲みません。



もとのにごりの 田沼 は恋しいです。






相手によりますが・・・・・・。






世間知らずのおすもうさん!



たいして罪の意識なしに手を染めてしまったのではないのでしょうか。



いわば 被害者 とおもってます。






ある程度は、大目にみてやってほしいです。



この ある程度 の線引き の 解釈はむずかしいです。



              ♪



 本来の日本人の おおらかさ という意味 で



 禊・祓(みそぎ・はらい) で穢(けがれ)を お祓い してもらい



 塩で



 清めて もらえば それでいいのではないでしょうか。



              ♪



文科省様



注意したり、怒ったり、脅し(法人がどうのこうの・・) ばかりの



 お役人・お上ぶり 



だけでは、何の解決にもなりません。



うつくしい日本の文化・日本の伝統文化 の保存、維持、発展させるために



努力して下さい。御助言下さい。がんばってください。

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2010年6月22日火曜日

ドブロヴニク(クロアチア) ⑩

ドブロヴニク(クロアチアの飛び地)です。


1991年に独立を宣言すると内戦になりました。 


このとき砲弾を受けた場所を示す地図が市内に何箇所かあります。 ↓


(近くのスルジ山には今でも地雷が埋められてるようです。赤いドクロのマークの標識があるそうです。)


今は再建と修復が進められてます。(修復の専門家、技師は、ワルシャワの町の戦後の復興にかかわった ポーランドの専門家などの援助を受けたそうです。)


ドブロヴニクは、ヴェネチアと同じような歴史をもってます。(ヴェネチアは異民族に侵入されて浅瀬に逃げ込んでつくられた町です。浅瀬や湿地に無数の杭を打ち込みその上に町を築きました。)ドブロヴニクの人々は、他民族に攻撃され小島の岩塊を新しい住みかにしました。城壁に守られたこじんまりとした町です。





町の守護聖人 聖ヴラホの像 がまちのいたるところにあります。左手にドブロヴニクの都市を持ってます。沢山写しました。↓
偶然右手に都市を持ってるのをみつけました。 ↓ (別の聖人でしょうか?)





















うつくしい フランシスコ修道院 ↓



修復してます。 ↓ 石油系のメデイウムの匂い がすごいです。






 ↓は、大聖堂 です。主聖壇は ‘テッツアーノの 聖母被昇天 ’です。対岸のヴェネチア派の巨匠にドブロヴニクが主聖壇を注文したのは アドリア海とルネッサンスの交流を物語ってます。 (近くで見ることはできませんでした。)




カトリックの町ではありますが、地理的に境界線に位置してます。


市内には小さなモスク・セルビア正教会・シナゴーグが一つずつ残ってます。


↓は、シナゴーグ


(ヨーロッパでもっともよく保存されてるといわれてます。)





シナゴーグのお兄さんと少しお話しできました。


国技館で先日買ったばかりの


‘お相撲さんの名前が漢字で書いてあるキイホルダー’を プレゼントしました。
 ‘す も う レ ス ラ ー’ を知ってるカワイイ青年でした。

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2010年6月21日月曜日

モンテネグロ ⑨

国境のうつくしいショコダル湖を超えて



世界で最も若い国モンテネグロです。(2006年セルビアから独立)



湖の近くの 



名物オーナーのいるペリカンホテルのレストランで 昼飯です。 ↓



大きなお魚を釣ったオーナー自らモデルになってる ホテルの案内 ↓
なんとか聖人に似てるそのオーナー ↓ (横顔になってしまいました。)




                  ♪



コトルです。



複雑に入り組んだ海岸の最奥部に位置する海洋都市コトルです。



395年古代ローマ帝国が東西に分裂した時の境界線はちようどこのモンテネグロを通っていたようです。なるほど、西側にカトリックの聖トリプン大聖堂、東側に東方正教の聖ルカ・聖ニコラの両教会があります。城壁に囲まれたこのミニツアのような都市は、東西の接点であり、せめぎあいの地であり、共存の地でありました。

郵便局です。 ↓ (黄色いポストです。)



このポストから日本に絵ハガキを送りました。(このポストの利用は2度目です。)







城壁 ↓



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